スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

大類館

土塁
P1020039.jpg

築城年:不明
築城者:大類氏
所在地:群馬県高崎市南大類町

 ここは、大類氏の館があったとされる場所である。大類氏は武蔵七党のひとつ、児玉党の一族である。『平治物語』の中に上野国の住人として「大類太郎」の名がみられるのが大類氏の史上の初見で、その当時からそれなりの勢力を持った豪族であったと言われている。大類氏は鎌倉・室町と勢力を保ち、結城合戦での活躍が伝えられている。
 現在残る遺構は戦国期に作られたもののようで、戦国期にもこの館跡は改修・使用されたのであろう。


参考文献:山崎一 『群馬県古城塁址の研究 上巻』 群馬県文化事業振興会
       大類村史編集委員会 『大類村史』 大類村史編集委員会


文責:吉井





伊勢崎陣屋

かつて廓があった場所
P1020060.jpg

築城年:1681年(天和元年)
築城者:酒井忠寛
所在地:群馬県伊勢崎市曲輪町


 ここはかつて伊勢崎陣屋のあった場所である。遺構は特になく、川沿いの地形がかつての郭の存在をを偲ばせるのみである。
 伊勢崎藩は2万石なので陣屋とされているが(3万石以下の大名は城を持たない)、縄張り図をみるとかなり重厚な造りであり、有事の際は十分城郭として機能する構造をもっていた。兵を隠しておいて、城門に迫り来る敵兵を奇襲させるための「隠し郭」まであったほどである。こうした構造のためか、北西に20mほどの幅をとった入口を設け、幕府に対して城ではなくあくまで陣屋造りであることを表明していたようである。
 伊勢崎藩は稲垣長茂が1万石の初代藩主として入封したことに始まり、稲垣氏転封後は酒井忠世が入封。忠世が前橋に移ると前橋藩に編入された。その後、忠世の子の酒井忠能は2万2500石を分与され伊勢崎藩主となったが、1662年(寛文2年)に忠能は信濃小諸藩に移封され伊勢崎藩は廃藩になてしまう。1681年(天和元年)に酒井忠清の三男酒井忠寛が伊勢崎2万石を分与され、再び伊勢崎藩が成立した。この陣屋はこの時に作られたものである。伊勢崎藩は代々酒井氏が継ぎ、明治維新に至った。


参考文献:『日本城郭大系』 新人物往来社
       山崎一 『群馬県古城塁址の研究 上巻』 群馬県文化事業振興会


文責:田中



群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

新品価格
¥1,260から
(2011/10/28 01:36時点)





同聚院の武家門(稲垣長茂の館門)

館門

門


築城年:1600年頃
築城者:稲垣長茂
所在地:群馬県伊勢崎市曲輪町

 稲垣長茂の館門であったとされる門である。長茂は、1601年(慶長6年)に伊勢崎藩1万石を領し、この地に館を構え、陣屋の構築や町割を行った。長茂は後に伊勢崎陣屋に移ったが、この館門は同聚院に引き継がれたと考えられる。薬医門の形式を取る門である。


参考文献:『群馬県の歴史散歩』 山川出版社



文責:田中



伝源経基館

訪問日:平成22年12月28日

P1010908.jpg



空堀

P1010906.jpg

P1010907.jpg

P1010909.jpg


土塁

P1010914.jpg

P1010913.jpg

P1010912.jpg


櫓台

P1010911.jpg


城址の碑(河野広中の揮毫)

P1010910.jpg


築城年:平安時代?
築城者:源経基?
所在地:埼玉県鴻巣市大間

 清和源氏の祖である、源経基の館の跡と伝わるが定かではない。扇谷上杉氏傘下の箕田氏の館跡であるとする説もある。コの字状に土塁・空堀がめぐらされている。
 歴史的な背景はよく分からない館跡であるが、遺構が非常によく残っており非常に見ごたえがあった。


参考文献:『日本城郭大系』新人物往来社


文責:飛鳥井





深谷城 

訪問日:平成22年12月28日

深谷城外堀跡

P1010916.jpg

P1010917.jpg

P1010918.jpg

P1010919.jpg

P1010920.jpg

P1010921.jpg


築城年:室町時代(詳細な築城年は不明)
築城者:上杉房憲
所在地:埼玉県深谷市本住町

 深谷城は、深谷上杉氏四代目の上杉房憲が築き、それ以来深谷上杉氏の居城となっていた城である。天文二十年(一五六〇)に北条氏康が、上野平井城の山内上杉憲政を攻めた際には、太田資正や長野業正がこの城で北条勢と交戦した。深谷上杉氏は天正元年(一五七三)七代目憲盛の時に北条氏に降伏し、その傘下となった。そして、天正一八年(一五九〇)の豊臣秀吉の小田原攻めに際しての攻撃により落城。深谷上杉氏は所領を奪われ没落した。徳川家康の関東入国後は、長沢松平家三代(松平康直、千代松、忠輝)→桜井松平家の松平忠重→酒井忠勝といった順で入封した。しかし、元和八年(一六二二)酒井忠勝が忍城に転封となると、深谷城は廃城となった。
 現在では、遺構として城址東側の富士浅間神社の周りに水掘の一部が残るのみである。

参考文献:『日本城郭大系』新人物往来社

文責:飛鳥井








上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。